猪突猛進男の世界一周やらかしブログ

旅のテーマは"なし"。旅は自由に!!やりたいことをやり、見たいものを見て、いろんなことに猪突猛進になって挑戦する。そして今自分が感じたことを一番に!!書き綴っているブログ。

ベトナム三~四日目 ― 戦証記念館、クチ洞窟

せっかくのホーチミンで何もしないのはもったいないので、戦証記念館とクチ洞窟というとこへ行ってきた。

両方ともベトナム戦争に関連するもの。



戦証記念館はデタムストリートから約30分程歩いたところにある。

自転車だったらすぐに着くため自転車をレンタルして行きたかったが、レンタルできる場所が全く見当たらず、結局歩いていくことに。



ベトナム戦争の始まりは、1945年にベトナムが独立を宣言したことから始まるようだ。ずっとフランスの植民地であったベトナムだが、第二次世界対戦でフランスが降伏し、日本軍が進駐するようになった。

しかし、日本も第二次世界対戦で敗北。

それをきっかけにベトナムは独立を宣言したのだ。



しかし、それを面白く見ないのがフランス。

フランスはベトナムの南部に傀儡政権を建国。

傀儡(かいらい)とは操り人形のことで、フランスの操り人形のような国を作ったらしい。

そして、ホーチミンの北ベトナムと争うことに。(第一次インドシナ戦争)


 この戦いは8年続いたがフランスが敗北。

そして、1954年7月にジュネーブ協定により北緯17度線を境にしてベトナムは分断されることになった。

そして南ベトナムにはアメリカを後ろ盾としたゴ・ディン・ディエムという人物が大統領となり国名をベトナム共和国とした。


ところが、このベトナム共和国(南)では政権内部は汚職まみれ。

政策も国民の大多数を占める農民の支持を得られるようなものではなかったので国民から不満だらけ。

ベトナム共和国がそんな感じなので北ベトナムは、武力による統一を試み南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成し内戦が始まることになった。



始めは内戦だけであったが、北ベトナムにはソ連が支援しており、当時はアメリカとソ連の冷戦の時代。

北ベトナムが勝つと、ソ連の共産主義が東南アジアに広がると考えたアメリカは、本格的に戦争に介入することになった。



というのが、開戦の理由らしい。

ちなみに、ほとんどがネットから引用している。笑








記念館はたくさんの人がいた。

建物は3階建てであり、3階から下りながら様々な写真や武器などを眺めていく感じ。



一番印象に残ったのは3階。

3階には、戦争により亡くなった134人の国際ジャーナリストにより撮影された写真の数々があった。

その中でも特に印象に残ったのは、3階の日本人ジャーナリストにより撮影された写真。

というか、それ以外の説明は英語表記だったので、写真の背景が分かりづらかった。



以下、その内容を少し。

※写真は著作権にひっかかるかもしれないので、泣く泣く載せるのを諦めた。



「農民が兵士から追いかけられている写真があった。」



コメント:農民は敵

農村から追い立てられる男性。私にとっては普通の農民に見えるが、米兵にとっては攻撃の対象になった農村は敵地であり、そこの住人は敵である。



「草原に立ちすくむ母と子の前に米兵が写っている写真があった。」



コメント:私も一緒に行く

連行される夫を心配する妻は自分も一緒につれていってと子供と共にヘリコプターの近くまで来たが、米兵に追い返された。



それ以外にも足を縛られて逆さ釣りにされて拷問を受ける男性や、川を泳いで避難する家族、血を流して横たえる男性の写真などが掲示してあった。



更に戦争で甚大な被害を与えたのが枯葉剤というもの。

ベトナムにはマングローブという熱帯雨林が多くあったため、それを枯らしてしまえば有利に戦争が行えると考えたアメリカ人は、大量の枯葉剤を撒いたらしい。

枯葉剤には大量のダイオキシンが含まれており、約400万人が枯葉剤を浴びた。

浴びた人の子供は奇形児となり産まれてきた。



子供が枯葉剤で汚染された場所に裸足で立っている写真があった。

その写真は終戦後1年以内に撮られたもので、まだダイオキシンで汚染されていた。



19年後の写真では、その子は脳性麻痺またはパーキンソンのような症状が進行し、会話も困難になっていた。



その子が37歳の時の写真では、更に脳性麻痺のような症状は悪化していた。

その子は闘病のかいなく、若くして亡くなったらしい。



この子以外にも被害を受けた人はたくさんおり、多くの写真があった。



1、2階にもたくさんの写真があった。

しかし英語で解説してあったため、若干分かりづらかった。



2日目はクチ洞窟へツアーで行った。

当時、この辺りには解放戦線の拠点がおかれており、鉄の三角地帯と呼ばれた難攻不落の場所だったらしい。

解放勢力は、総距離250kmにも及ぶ手作りのトンネルを地下に作った。

このトンネルは複雑であり、アメリカ軍の攻略を許さなかったらしい。



ここではそのトンネルを経験することができた。





これはトンネルの入り口。



ツアーだったので、皆経験することはできなかったが、ブログのために頑張って挙手して、入らせてもらった。







人がやっと一人通れる広さ。







このような蓋?をして入り口を隠すのだ。



中は足場があり、そこから更に深く潜り込んだらトンネル内部へ行けるといった感じの作りだった。



別の入り口から、内部へ入ることができた。













穴の高さはマチマチで、大体70cmから1mくらいであろうか?

大人であれば、常に中腰になってないと通れないであろう。

内壁は、土とは思えない程固かった。



入ってみて思ったことは、めっちゃ怖かった(゜ロ゜)

見学用とは思えない程トンネルは長くて(体感時間は10分燗)、酸素は若干薄く蒸し暑い。

中腰にしかなれないことの苦痛と、閉所に人が何人も入っており、前後にも人がつまっているため自由に身動きがとれないことの恐怖が大きく、早く出たくてたまらなかった。

思わず前の人を思いっきり押してしまった。笑



こんなところで毎日生活することに耐えられるだろうか?

毎日死と向き合いながら、いつアメリカ兵が襲ってくるか分からない中で。

考えられないなー。

想像を絶する生活だ。



2日間に渡り、ベトナム戦争関連の施設を見学してきたが、とにかく疲弊した。

カンボジアで受けた衝撃がまだ残っていたから尚更だ。

カンボジアの後で正直きつかったので、ベトナム戦争の施設は後回しにする選択も考えたが、やっぱり戦争は人類が避けては通れなかった道だし、今が幸せなのは戦争があったからだとも思うので、目を背けたくない場所ではあり見学することにした。

これらの施設を見学して、死の怖さを再確認できた。

我々に与えられた課題は戦争を再度起こさないことなのかもしれない。

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